何のための人生か、何を目的に生きているのか、考え出すとキリがないのが哲学です。自分で考えると考えが堂々巡りになりますが、そういった悩みというのはすでに哲学者が取り組んで割としっくりくる答えを出してくれています。
少しだけ哲学の世界に浸ってみるのも良いのではないでしょうか。
自分の存在って何だ?
自己、アイデンティティ、自分の意識というのを考えるとわけが分からなくなってきますね。自分の意識を認識できるのは自分だけだと考えるなら自分の意識は他人からは認識できないため、自分自身が本当に存在するのかわかりません。そんな難しい考えも哲学者たちが考え続けてきているおかげで、割としっくり来る答えになっています。
例えば、デイヴィッド・ヒュームは(紀元1711~1776年)は自己とは経験による連合体で知覚の束でしかないと言っています。少しずつ経験して経験の断片が抜け落ちていくのを想像するとわかりやすいですね。
あくまで自分の意識が知覚の束であるなら自己の存在は幻想でしかないというものです。物心つくのはいつだと言われるとある程度経験してから出ないと発生し得ない為、魂という存在もなく、ただの経験の集まりでしか無いんですねー。
何のための人生か
それじゃあ自分は何のために生きてるのか、何のための人生だーって考えてしまいますが、それも哲学者たちが考えています。
少しTwitterでも触れていますが、人生に目的があると実感を持っていない場合は、自分を偽らずに、誠実に、正しく生きることこそが人生の目的です。
人生の意味や目的を探してたら哲学者としては一生懸命自分に誠実に生きることが結論らしい。
その最中に別の生きる意味を見出だせるならそれもよしとする。
この軸あってこその人生だなぁ。
— あとるむ@心身向上投資家 (@Atolm_D) May 6, 2021
それ以外の人生の目的は個人個人によって様々です。それを見つけるのもまた人生の目的かも知れません。ソクラテス(紀元前470-399年)も以下のように人生を考えています。
吟味なき人生は生きるに値しない
考え続けていくのが人生だと、生きる意味がわからなかった私にとってはなるほどなーっとしっくりきました。
悟りを開くのは簡単
生きる意味がわかったところで、世の中には不安や心配がありますね。悟りを開けば救われるとよく言いますが、死んで極楽浄土に行ったり来世で良くなったりしても今の自分は救われません。しかし、空海(紀元774-835年)から伝わっている釈迦(紀元前7世紀ごろ)は悟りを開いて次の言葉を残しています。即身成仏と。
即身は今の自分、あるがままの自分です。成仏というのは仏である、悟りの事です。これを簡潔に示すと過去現在未来の自分は関係なく、あるがままの自分を受け入れた自分であればすでに悟りを開いているということです。
これってデジャヴかな?先の『何のための人生か』で書いたように自分を偽らずに、誠実に、正しく生きることとほとんど同じですねー。
何の心配していない人は今現在を誠実に精一杯生きている人で過去や未来に縛られている人では無いんですね。そう考えると考え方一つで気が非常に楽になります。
まとめ
即身成仏も今を生きるのも吟味する人生もすべて人間の本能から来ています。少し前にも同じような記事を書いています。未来の漠然とした不安は人間の危機管理能力の欠如の一つです。昔は今日明日を生きるのに精一杯で、遠い未来まで見る暇はありませんでした。現代では今日明日命を狙われる心配は殆ど皆無です。そういったことからも今回の哲学や悟りは人間という種を理解する上で重要なことでは無いでしょうか。また、自分自身が単なる知覚の束に過ぎ無い為、特別視する必要もなくなるのではないでしょうか。

☆日々の継続こそが心身向上の糧☆